ウェブが革命的な変化をもたらす?その考えは危険だ
イギリスの著名なジャーナリスト、Bryan Appleyardが、同国のタイムス紙に寄稿してウェブの進化に警笛を鳴らしている。Appleyardが58歳で、ジャーナリストであるというところは、世界で止めどなく加速するウェブを危惧するひとりであることの資質になるだろうが、ウェブが世界を変革することが目に見える昨今、こうした反論は大変貴重だ。
まず、Appleyardはウェブが最近起こしてきた問題をあげる。アメリカのcraiglistに売春広告が多くなり過ぎて性犯罪の温床になっているという批判から、craiglistはアダルト関連広告を禁止した。フランスのL'Orealのコピー商品がeBayで販売されることを禁止できなかったこと。Googleのストリートビュー機能が、世界各地でプライバシー問題を引き起こしていること。Googleのパワーはどんどん増殖し、連動型広告で個々人に適した広告をあらゆるウェブ活動のなかで叩き付けられること。
次にウェブの技術は、核や蒸気や電気のように、世界を変革するテクノロジーではなく、新聞やテレビなどように、ただのコミュニケーションツールに過ぎないとする。
さらに、ウェブが最もその変革をもたらしたものは、徹底した個人主義だと言う。これは頷ける。ブログ、マイクロブログ、SNSなど、個人が世界にマーケットできるツールが爆発的に成長している。Googleのパワーの源泉は個々人に適したマーケティングができるところだ。
「それの何が悪い?個人はやっと自由を手に入れたのだ。」シリコンバレーのカリフォルニア人は言うだろう。
既存の制度や体制や機関をぶっ壊した。そうしたこれまでの体制や機関は、個人などよりももっと役に立つことをできる。社会に資するものを提供できる。個人がネットで提供できるのは、冷静になって見れば陳腐で低俗なものでしかない。
ウェブが個人に与えた自由は、集団で協調して努力するということの足かせになっている。出版社、新聞社、博物館、大学、学校といった機関はのそもそもの存在理由は、個人でやるよりもずっと優れたことができるからだ。
さらに、個人主義への行き過ぎた偏りは、期待されるようなハイパー民主主義をもたらさない。Wikipediaは、当初の理念と違い、あらぬ書き込みを制限するために検閲をせざるを得ないはめになったし、ブログの世界では、組織化された巨大ブログが寄生虫的な精神でメインストリームメディアに日々噛み付いている。Twitterですら、もうすでにオプラ・ウィンフリーのような芸能人の独断場となりつつある。
さらに悪いことは、行き過ぎた個人主義は奴隷的恭順性へと行き着く。誰もが個人として独立できるわけではない。支配するもの、支配されるもの、情報を発信するもの、情報を与えられるもの。テクノロジーのスピードと知的多様性は、正比例しない。インターネットは文化を殺す。
ウェブが個人に与える自由へのカルト的盲信。これが最大の問題だ。だが、ロシアなどはこの問題をネットアクセスを一方的に遮断することで一気に殲滅した。
新世界は訪れない。ウェブが物質世界を変えることはない。
日本の代表的掲示板である2ちゃんねるなどを見れば、この反論の正当性が理解できなくもない。

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