2009/04/19

良質なコンテンツとは何か

世界総アマチュア化時代。Web2.0と呼ばれる世界とは、一面、言わば、そういうことであろうか。

すでにして、ネットの大海には、事実上野放しにされた違法コンテンツ、氾濫するアマチュア・コンテンツが無限に漂っている。かつて大陸を制覇し支配していたエンターテインメント企業の英雄たちは、監視船団を展開し、あるいは、海上に堅固な構築物を設置しようとしているものの、大海に水一滴の観は否めない。

インターネットの個々のユーザーが主権を握る時代には、企業は主導的な役割を果たすことはできず、さらには、産業構造に組み込まれたプロフェッショナルの地位は、その収益構造の弱体化とともに、次第に脆弱なものとなっていく。

権利保護派と自由利用派との間で、それぞれの言い分を両天秤にかけたときに、常に私の頭に浮かぶのは、「総アマチュア化の時代は良質なコンテンツを生み出すことができないのか?」という問いである。

「良質なコンテンツ」という代名詞は、権利保護派の橋頭堡と言え、最近のニュース記事のブラウン英首相の発言にも見受けられる。また、web2.0に否定的な論者として知られるアンドリュー・キーン氏も、自著または講演会において、その危機を声高に訴えている。

一方で、このグローバルなネット空間において、既存の企業が、その需要の行方を真に見極められているのかどうか。いかに「良質なコンテンツ」であっても、ユーザーたちは本当に自らが欲しているものを「与えられて」いるのか。「ネット版ビルボード」と言えるサイトの結果と、「正しい」ビルボードの結果を見比べてみるのも一興である。

アマチュアとプロフェッショナルとの間で、色々な意味で「使用可能な技術」に差が認められることは疑いはない。そこには、決定的な才能というセンスの差もあるということを、事実として尊重するべきだろうとも思う。

しかし、例えば、この素人の手によると思われる動画は、専門家の視点では技術的に未完成な点が見受けられるのかもしれないが、「良質なコンテンツ」とは言えないのだろうか。


あるいは、この動画に触発されて、関連する動画が生み出され投稿されるという、「開かれた作品」を中心として、人々により様々に更新されていく文化のコミュニケーションの在り様は、「英雄たちの時代」に見られた現象だったろうか。

「英雄たちの時代」の「才能」の多くは、実際は、「専門性」という言葉と互換可能だったのではないのか。

確かに、「権利」をないがしろにすることは許されることではない。しかし、「権利」を取り巻く法制度が、既存の価値観にがんじがらめにされているということは充分に在り得ることである。現在、我々が「権利」として見えている姿は、既存の法制度により作り上げ表出された体裁であるに過ぎない。そして、既存の価値は、英雄たちの価値と合致するものである。

しかし、本来のところ、「著作権」という価値は、「創造性」を賛美する、優れて人間的な意義を有している価値観であろう。それが、いつの間にか、「利益」という副次的な視点に取って代わられていないか。実のところ、「良質なコンテンツ」とは、「閉じた作品」を中心とした利益の増幅構造を意味しているのではないのか。英雄たちは、真の意味で、創造的なのだろうか。

我々は、真に「権利」を守ることに全力を尽くしたい。

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