2009/05/11

ダウンロードの10年間 その1:Napster

カナダのwww.theglobeandmail.comが「ダウンロードの10年間」と題した特集記事を始めた。P2Pの登場から約10年を経過し、P2Pが文化やビジネス、はたまた世界に与えた影響を掘り下げる。第1回目は、すべての始まりとなったNapsterを取り上げる。記事は非常に長く、Napsterの設立者であるショーン・ファニングへのインタビューや当時の全米レコード協会との軋轢など、詳細に書いてあるが、個人的に面白いと思う箇所をかいつまんで要約してみたい。全文はこちらでどうぞ。

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1999年1月、前年9月に大学に入学したばかりの18歳のショーン・ファニングは、入学したばかりの大学を退学してP2Pシステムの構築に専念することを決める。ファニングはたったひとりでシステムのすべてを構築し、同級生が大学1年を終える6月、作業が完成する。

ファニングのP2Pシステム以前にも著作権侵害やファイルシェアリングは存在したが、ファニングのNapsterはPCに強いオタク以外の一般人にも、コンテンツというものは無料で入手できるということを広める。その影響力は急拡大し、それまでのビジネスモデルを破壊し、また新しいビジネスを生み出し、消費者にとって善と悪の区別を不明確にし、いまだ様々なビジネスがその影響に苦しめられている。

P2Pシステム完成から6ヶ月後、ソフトのダウンロード数は200万件を超える。ファニングはシリコンバレーに近いサン・マテオに居を移し、叔父のジョン・ファニングとともに会社を設立する。同時に全米レコード協会との折衝にも入る。

1999年12月、全米レコード協会はNapsterを著作権侵害で提訴する。訴訟は2年を要し、アメリカ司法をインターネットの時代へと誘い、政治家も巻き込んでの大論争となる。メディアをこぞって報道し、皮肉にも世界にP2Pを知らしめることになる。

2000年2月、Universal Musicの親会社であるSeagramはニューヨークにて世界の役員を招集してミーティングを開く。音楽業界としてはNapsterが世界に浸透して音楽が無料だと認識される前に、音楽のデジタル販売を確立しなければならないとした。6ヶ月以内に。

実際は6ヶ月どころか2年を要することになる。その間に、投資家が動き出す。2000年5月、ハンク・バリーという投資家が13億円を投資し、バリーはその後18ヶ月にわたりNapsterのCEOを務める。

7月、アメリカ議会が公聴会を開き、Napsterは世界の音楽レーベルとの交渉に入る。また連邦裁判所がNapsterに著作権を侵害しているとの判決を出す。すぐに控訴され、その間Napsterは運営され続けた。

2001年2月控訴審判決もNapsterの有罪となり、2002年5月、破産に追い込まれた。音楽業界ははじめからNapsterとまともな交渉をするつもりはなく、着々と自身の配信サービスを完成させており、Napsterのユーザーに対しては5万件を超える数で訴訟を起こすことになる。

メタリカのドラマー、ラーズ・ウルリッチをはじめとしたアーティストも議会などで証言し、Napsterに強硬に反発した。一方でNapsterを使いながら成人したGirl Talkなどマッシュアップアーティストなどは、昨年のアルバムチャートで4位に入るマッシュアップアルバムを制作するなどしている。

Napsterの登場で特をした業界が、ISPだ。それまでダイヤルアップ方式でのネットコネクションが主流だったものが、Napsterを利用したいが為にブロードバンドに乗り換える客が急増する。これはカナダでも同様で、ブロードバンドの普及は1999年を境に増加している。

それまで苦戦を強いられていたアップル社も、Napsterの爆発的な普及を目にしてユーザーが音楽をどのようにして楽しみたいか、消費したいかを理解したという。2003年のiTunesに結実する。

Napsterの名前は、ファニングが学生時代に付けられたあだ名だそうだ。ファニングは髪の毛を洗わないことが多かったらしく、その髪は紙おむつ、“Nappy”のように見えたからだとか。

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